2026年10月16日金曜日

参百弐拾参~ドラえもんの道具なんて無理と笑う僕らは、ビッグバンを知らない侍と何も変わらない~

 


「どこでもドア? 質量保存の法則を無視してるから不可能だよ」

「タケコプター? あのサイズのアタッチメントじゃ人間の体を持ち上げる揚力は

出ないよね」

SFやアニメのSF(すこし・ふしぎ)に対して、

現代の科学や物理法則を振りかざして野暮なツッコミを入れる人がいます。

「科学的にあり得ない」と切り捨てるのは簡単ですし、

一見すると知的に思えるかもしれません。

でも、ちょっと立ち止まって考えてみてください。

これって、「江戸時代の人が21世紀のスマホを見て

『そんな手鏡の中に人が閉じ込められているわけがない、妖術だ』

と全否定している」のと全く同じ構造ではないでしょうか。


制限された知識で「未来の可能性」を測る愚かさ


江戸時代の人々に「将来、平らなガラスの板を指で撫でるだけで、

地球の裏側にいる人と顔を見ながら会話ができる」と言ったら、

間違いなく腹を抱えて笑われたでしょう。

飛脚が何日もかけて走っていた時代に、

光の速さで情報が届くなんて妄想以外の何物でもありません。

現代の僕たちが「ドラえもんの道具は不可能だ」と断言する時、

僕たちは“21世紀現在の科学水準”というローカルな枠組みの中に閉じたまま、

未来を測ろうとしています。

量子力学や空間の歪み、まだ解明されていないダークエネルギーの解釈が進んだ

100年後、200年後——

「昔の人はどこでもドアを不可能だと思ってたらしいよ、ウケるね」

なんて言われている未来があっても、全く不思議ではありません。

「できない理由」をロジカルに並べるのは簡単です。

けれど、それでは未来の扉は開きません。

必要なのは「バカバカしさ」を肯定する


圧倒的な遊び心


科学の発展に必要なのは、

いつだって「もしこんなものがあったら面白くない?」

という、少年の妄想のような無邪気さです。

そしてそれを受け入れる「世の中の遊び心(マージン)」

いまの世の中は、正論やロジック、効率ばかりが求められて、

少し窮屈になりすぎていないでしょうか。

思い出すのは、かつて関西テレビ(KTV)が深夜番組で見せた、

あの伝説のシュールな映像です。

ドラえもんの明るい主題歌が流れる中、画面に映し出されているのは、

静かな小川をうつ伏せになったままどんぶらこ…と流されていく

土左衛門のドラえもん

深夜の静寂の中に投げ込まれた、ブラックで、くだらなくて、

でも最高にエッジの効いたパロディ。

「コンプライアンス的にどうなんだ」「不謹慎だ」

といった野暮な言葉で塗りつぶされる前の時代には、

作り手の「これ、絶対に面白いだろ」という悪ノリと、

それを見てクスッと笑う視聴者の間の暗黙の了解(遊び)がありました。

カチコチの頭をほぐして、未来と悪ノリを楽しもう


ドラえもんの道具を科学で否定してしまう冷めた視線と、

深夜番組のナンセンスな笑いを「くだらない」と排除してしまう風潮は、

根っこで繋がっている気がします。

どちらも、「自分の知っている世界の枠外にあるもの」を排除しようとする心の狭さ

から来ているのかもしれません

未来を作る発明も、夜中に僕たちの心を救うエンタメも、

すべては「一見無駄に見える遊び心」から生まれます。

科学の限界を誇る大人になるくらいなら、江戸時代の侍にスマホを見せて驚かせつつ、

深夜のテレビで「土左衛門」を見て爆笑するような、

しなやかで悪ノリの効いた頭を持ち続けていたいものですね。

参百弐拾参~ドラえもんの道具なんて無理と笑う僕らは、ビッグバンを知らない侍と何も変わらない~

  「どこでもドア? 質量保存の法則を無視してるから不可能だよ」 「タケコプター? あのサイズのアタッチメントじゃ人間の体を持ち上げる揚力は 出ないよね」 SFやアニメのSF(すこし・ふしぎ)に対して、 現代の科学や物理法則を振りかざして野暮なツッコミを入れる人がいます。 「科学...