2026年10月17日土曜日

参百弐拾四~タイトル:御苑の風と、観光客の足音 — 生粋の京都人が考える「オーバーツーリズムとの共生」~

 

<a href="https://photo53.com/" target="_blank">京都フリー写真素材</a>

生まれも育ちも京都市、御苑の目と鼻の先で長年暮らしています。


私にとって京都は、歴史の教科書に出てくる観光地などではなく、


朝にゴミを出し、夜にスーパーで惣菜を買い、


季節の移ろいを御苑の木々で感じる「ただの生活の場」


最近、ふと思うことがある。


少し前までは、観光客といえば清水寺や金閣寺、嵐山といった


「超定番スポット」に集まるものだった。


しかし最近は違う。住宅街の路地裏や、なんでもない地元の定食屋、


あるいは私たちの日常の散歩コースにまで外国人観光客や国内の旅行者が


すっと溶け込んでいる。


正直に言えば、最初はぎょっとした。


「え、なんでこんなフツーの場所にまでおるん?」と。


同時に、SNSやマップアプリを駆使してディープな京都を探し当てる


彼らの情報収集能力の高さには、ただただ感心してしまう。


もはや「観光エリア」と「生活エリア」の境界線は、


綺麗に消失してしまったらしい。


こうなると、市民の間から「混雑でバスに乗れない」「ゴミが散乱している」


「静かな暮らしを返せ」といった悲鳴や怒りの声が上がるのも当然。


オーバーツーリズムに対する拒絶反応は、


日々の生活を脅かされている住民からすればごく自然な感情だと思う。


だが、感情論だけで「観光客は出ていけ」と排除に走るのには、


私はどうしても違和感を覚える。


忘れてはならない冷酷な現実がある。


京都市の財政問題だ。


一時期は「財政再生団体(事実上の破産)」に転落するのではないかとまで囁かれた


この街が、なんとか踏みとどまり、財政再建への道を歩めている大きな要因の一つは、


間違いなく観光客が落としていくお金(観光消費や宿泊税、それに伴う雇用や法人税など)


のおかげ。


もし観光客がゼロになったらどうなるか。


市のサービスは低下し、インフラの維持も難しくなり、


結局そのツケを払うのは私たち市民。


観光客は、私たちの行政サービスや街の維持を影で支えてくれている存在でもあるのだ。


だからこそ、私は思う。


「オーバーツーリズムの被害を我慢し続ける必要はない。


しかし、観光客を排除するのも違う」


私たちが模索すべきは、安易な拒絶ではなく「共生」の道ではないだろうか。


自治体や事業者に求めるべき対策は山ほどある。


市民側も、ストレスをただ溜め込むのではなく、


声を上げつつも「新しい京都のあり方」を受け入れていく柔軟性が必要なのかもしれない。


今日も御苑を歩けば、ベンチで楽しそうにおしゃべりをする海外からの旅行者とすれ違う。


彼らが感動しているこの街の日常は、私たちが守ってきた生活そのものだ。


嫌悪感を抱いて遠ざけるのではなく、


かといって自分たちの暮らしを犠牲にして我慢するのでもなく


「生活者」として、この歴史ある街でいかに観光客と


心地よい距離感を保ちながら共に生きていくか。


御苑の風を感じながら、そんなことを考える今日この頃です。


最後に…


二条城の二重価格は意味がない。


地元民は京都タワーに登らないのと同じく、二条城には入らないから。


赤字垂れ流しの京都コンサートホールを、やめればいい。

2026年10月16日金曜日

参百弐拾参~ドラえもんの道具なんて無理と笑う僕らは、ビッグバンを知らない侍と何も変わらない~

 


「どこでもドア? 質量保存の法則を無視してるから不可能だよ」

「タケコプター? あのサイズのアタッチメントじゃ人間の体を持ち上げる揚力は

出ないよね」

SFやアニメのSF(すこし・ふしぎ)に対して、

現代の科学や物理法則を振りかざして野暮なツッコミを入れる人がいます。

「科学的にあり得ない」と切り捨てるのは簡単ですし、

一見すると知的に思えるかもしれません。

でも、ちょっと立ち止まって考えてみてください。

これって、「江戸時代の人が21世紀のスマホを見て

『そんな手鏡の中に人が閉じ込められているわけがない、妖術だ』

と全否定している」のと全く同じ構造ではないでしょうか。


制限された知識で「未来の可能性」を測る愚かさ


江戸時代の人々に「将来、平らなガラスの板を指で撫でるだけで、

地球の裏側にいる人と顔を見ながら会話ができる」と言ったら、

間違いなく腹を抱えて笑われたでしょう。

飛脚が何日もかけて走っていた時代に、

光の速さで情報が届くなんて妄想以外の何物でもありません。

現代の僕たちが「ドラえもんの道具は不可能だ」と断言する時、

僕たちは“21世紀現在の科学水準”というローカルな枠組みの中に閉じたまま、

未来を測ろうとしています。

量子力学や空間の歪み、まだ解明されていないダークエネルギーの解釈が進んだ

100年後、200年後——

「昔の人はどこでもドアを不可能だと思ってたらしいよ、ウケるね」

なんて言われている未来があっても、全く不思議ではありません。

「できない理由」をロジカルに並べるのは簡単です。

けれど、それでは未来の扉は開きません。

必要なのは「バカバカしさ」を肯定する


圧倒的な遊び心


科学の発展に必要なのは、

いつだって「もしこんなものがあったら面白くない?」

という、少年の妄想のような無邪気さです。

そしてそれを受け入れる「世の中の遊び心(マージン)」

いまの世の中は、正論やロジック、効率ばかりが求められて、

少し窮屈になりすぎていないでしょうか。

思い出すのは、かつて関西テレビ(KTV)が深夜番組で見せた、

あの伝説のシュールな映像です。

ドラえもんの明るい主題歌が流れる中、画面に映し出されているのは、

静かな小川をうつ伏せになったままどんぶらこ…と流されていく

土左衛門のドラえもん

深夜の静寂の中に投げ込まれた、ブラックで、くだらなくて、

でも最高にエッジの効いたパロディ。

「コンプライアンス的にどうなんだ」「不謹慎だ」

といった野暮な言葉で塗りつぶされる前の時代には、

作り手の「これ、絶対に面白いだろ」という悪ノリと、

それを見てクスッと笑う視聴者の間の暗黙の了解(遊び)がありました。

カチコチの頭をほぐして、未来と悪ノリを楽しもう


ドラえもんの道具を科学で否定してしまう冷めた視線と、

深夜番組のナンセンスな笑いを「くだらない」と排除してしまう風潮は、

根っこで繋がっている気がします。

どちらも、「自分の知っている世界の枠外にあるもの」を排除しようとする心の狭さ

から来ているのかもしれません

未来を作る発明も、夜中に僕たちの心を救うエンタメも、

すべては「一見無駄に見える遊び心」から生まれます。

科学の限界を誇る大人になるくらいなら、江戸時代の侍にスマホを見せて驚かせつつ、

深夜のテレビで「土左衛門」を見て爆笑するような、

しなやかで悪ノリの効いた頭を持ち続けていたいものですね。

参百弐拾四~タイトル:御苑の風と、観光客の足音 — 生粋の京都人が考える「オーバーツーリズムとの共生」~

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